ご飯が出たら、酒も終り、かくて饗宴はオヒラキになるーというのが日本でのきまりだ。酒好きによると、空いたお腹にこそ、酒の味しみとおるというのである。だからいわゆる晩酌を楽しむ人は、小皿の食べるともなくサカナにして飲み、ほどよく酔いがまわったころ、ご飯で終りにするか、あるいはメシなどいらねエという人も少くない。 どうやら酒好きの人は、セッセと食べるヤツがかたわらにいると、自分までが満腹へせきたてられていると感じて、ニラミつけたくなるようだ。だが沖繩では、酒の飲みかたが変っていて、まず腹ごしらえをしてのち、酒をはじめる。男たちが仲間を集めて飲みだすのは、たいてい夕飯後だった。そういう考えかたが、最高の正餐でもてなす場合にズバリと現れていたのである。かつてわたしが経験することのできた最高の正餐は、「三献の料理」だった。「三献」とは、一の膳にはじまって三の膳におよぶ饗応を意味している。膳部はとりどりの味で、料理に現れた沖繩の文化を知るのに適した正餐だったといえるだろう。当時のわたしは二十三歳くらいだった。こんな若さで、正餐の場に出られたのは、新聞記者だったからである。たしかな記憶ではないが、著名な考古学者が訪れたので、沖繩の文化を、もてなしの面でお見せするために、「三献の料理」による歓迎宴がひらかれたのであり、取材の必要から、わたしも末席にいた。 昭和八年か九年のことである。宴席が設けられたのは、那覇市の「辻」と呼ばれるところ、弦歌さんざめく色街と通りをへだてて軒をならべる料亭の中で、もつとも格式の高い「三杉樓」だった。「三杉樓」は、琉球料理の伝統を忠実に守っている店で、古くからのしきたりにも通じでいたのである。このころになると、宴会などに使われる料亭の料理には日本料理の影響が濃くなっていたのだが、その店にはまだ古式があった。
宴は茶と菓子から始まったさて、主客が席につくと、すぐに供されたのは茶と菓子である。遠い時代から中国との縁が深かった沖縄の人たちは、好んで中国系の茶を飲んでいた。福建省の福州には、琉球王府から赴く使節たちのために琉球館が設けられていたそうで、のちに沖縄の茶商が館を借りて茶をつくるようになり、つくられた茶はもつぱら沖縄で売られる仕組みになっていた、とわたしは覚えている。とにかく沖縄の人たちは、中国系の茶を一口に「清明茶」(シイミイチャ)と呼んでいたのだが、「三献の饗応」が「清明茶」ではじまったのは、いうまでもない。茶に添えられている菓子は「くずもち」(くじむちと発音する)だった。茶の一服で主客をくつろがせようという趣向である。「くずもち」は、唐芋から取った真白い澱粉を水で溶き、砂糖(特に宮古島で製されるをよしとした)を加えて炊く。固まったのを角切りしてキナ粉をまぶすといったカンタンにできる菓子で、家では、母親たちがコドモのために手づくりした。念のためにいうと日本では一般に「さつまいも」と呼んでいるが、沖繩では唐からの伝来品なので唐芋であり、単に芋ともいう。かつて多くの家が、この芋から澱粉をとつて、貯蔵食品としていたし、したがってその「くずもち」は、まったくの沖繩風菓子だといえるだろう。軽く舌で溶け、かすかに残る砂糖の甘さを熱い清明茶で洗ったころに出たのは、汁ものを主とする一の膳である。
一の膳、妙味いなむどぅち汁の一つは「そうめんの吸いもの」で、鰹節によるダシの味を幾ロか楽しむだけの料理。もう一つの汁ものー沖繩言葉でいう「いなむどぅち」を字解きするなら、「猪もどき」で、猪のように豚肉を白味噌仕立ての汁にこしらえてあるわけだ。澄んでいる汁は、塗り椀に盛るのだが、味噌仕立ての場合だと、焼きものを用いるのが定めとなっている。白い脂身が目立つほどついている肉を使い、コンニャク、カマボコとともに薄い短冊切りにしたのが汁の中に盛りあがっている「いなむどぅち」のおいしさは、白味噌の甘さに脂身の風味を取りあわせることで生じるようだ。豚を貴重な食べものとするようになって何百年、豚肉のどこをどう使えばいいかということについての智恵をみがいてきた沖縄の人たちがつくりだした妙味ある料理の一つだ、といっていい。汁もの二つの向うに「さしみ」あり、沖繩でいう「さしみ」とは、酢のものである。ナマの魚をつくりにして食べる習慣が生まれなかったのは、高温多湿のせいだった。夏が長くて、炎熱の日は気温が三十五度にのぼる。漁師が海でとってくる魚は、水揚げされるころには、もう鮮度を失っていただろう。すでに鮮度を失っている魚を売りにいくのだから、買い手へ渡るまでには、かなりいたんでいた。水温の高い海で育つ魚は、あぶらがのっていないので、うまくもない。ナマを食べるより、酢のものにすれば、衛生的にも危くないし、味も救われるということで、沖繩的な「さしみ」を思いついたのではなかろうか。「さしみ」に使われたのは、メバル、グルクンといった白身の魚である。薄づくりして、酢に浸した。酢の作用で、薄づくりの表面が白くふやけてしまうのだが、これが沖繩の「さしみ」で、コドモだったころのわたしは、酢で半煮えみたいになった切り身に妙なおいしさを感じたのである。魚を冷蔵して鮮度を保つことが可能になると、智恵のある料理人は、古くからのしきたりによる沖繩風「さしみ」をつくる場合、魚を酢に浸しておくといったことをしないで、食膳に出す直前、ほんの少量の白糖をふりかけ、かつ酢を軽く注ぐようになった。鮮度のいい魚の味をころさずに、酢で食べるということである。少量の白糖は、味を補うためにちがいない。「いなむどぅち」のあとで、淡白な白身の魚を酢で食べたわたしは、二の膳への食欲を高めたように、今も覚えているのだがー。その膳が引かれて、つぎにさしだされた二の替りは、いわばご飯のための膳だった。汁は「あしていびち」で、豚の角煮と地漬け、および「五盛」(いちむい、という)を配した膳なのである。酒はまだ出番でなかった。「五盛」というのは、膳の飾りとでもいえばいいか。人参、苦菜、モヤシ、きくらげなど山の幸に、海の幸としてつのまたを加え、どれも細い糸切りにして、皿の中心から五つの方向へ放射するようにおき、中心に据えた輪切りの人参に黒木の葉を立てる。ナマの野菜類なので食べられないのだが、色どりは美しい。海の幸、山の幸への感謝をこめた飾りものだ。あの宴席を思いだして、今ごろ、わたしが気づいたのは、ご飯とともに食べる「あしていびち」には、大ぶりに切った大根を取りあわせてあるものの、青い野菜は何一つなく、せめて膳部をながめる目に、山と海との自然な色を味わってもらおうとする心づくしが、「五盛」になって表われているのではなかろうかということである。
ニの膳、傑作あしてぃびちそれはともかく、「あしてぃびち」については語ることが多い。材料となるのは、足首から上だ。足先きの場合は、「ちまぐう」といわれ、料理の材料として品が下がる。豚の足を皮つきのまま、当然のことながら毛根にいたるまでキレイにこそぎとってのち、食べやすい形に骨ごと切り分けて、ゆっくりと煮こむのだが、皮の下でタップリと骨を包んでいる白身は、あぶらでなく、ゼラチン質だ。 白身を見て、あぶらと勘違いしてはならなのである。ただゼラチン質なので、味がなく、おいしく食べられるように、ダシ汁で気長に煮こむ。ゼラチン質に味が浸みて、皮もとろけてしまい、箸でフンワリと切れるようになったら、できあがりだ。味つけには塩を使う。薄い塩味の汁を飲み、とろけた皮とゼラチン質の風味を食べる時、わたしは「あしてぃびち」を沖繩料理の傑作だといいたくなる。ヨーロッパに旅して、わたしはミュンヘンでドイツ風の豚足料理を食べた。膝下からの足一本をあぶり焼きにするという無雑作な料理だったし、ついで豚足を材料とするフランス料理を味見したこともあり、フランス風は酒を使って煮こむという念の入った料理だったけれど、皮とゼラチン質をおいしく食べさせる点で、わたしの味覚は沖繩風に勝星を与えたくなつたのである。この「あしてぃびち」を沖繩の人たちが、あらゆる料理の上位におくのは、餅のようにネッチリとしているゼラチン質の舌ざわりや香りの品よさなどに加えて、栄養価の高さによることだ。ゼラチン質を食べることが人間のからだを頑丈に保つためのうえで必要だ、と昔の人たちは知らなかったかもしれないが、沖繩では年寄りにすすめる料理の一つになっていたのである。だいぶ歯が弱っている年寄りでも、ほとんど噛む必要がないくらいとろけているゼラチン質の風味を楽しめるだろう。買ってきた足をあぶって毛根まで除くことからはじめる料理は、ずいぶん手間がかかるといえ、昔から年寄りをたいせつにする風習のあった沖繩では、家々の料理番である女性たちが難儀をいとわなかった。 ゼラチン質を怠らずに食べているおかげで、年をとつても足腰のシッカリしている人が多く、ひいては長い人生を送ることにもなったのである。一方、白飯のおかずとして食べるのに適した「角煮」は、ほどなくはじまる酒への備えでもあるとみていいだろう。味の深さと豊かさをいうなら、「角煮」は抜群だ。皮は飴色につやつやとし、その下に脂身の層と、赤い肉がタップリの角切りは、味の総合体なのである。箸ではさみ切った一片を口に入れると、トロリとなっている皮の歯ざわりと脂身の香り、肉の味とが、妙なる調和の三重奏となって、味覚神経を酔わせるという料理だ。材料に使われている豚肉が上等であったかどうかは、その「角煮」と、三の膳に出る「らふてえ」にアリアリと現れる。かつて沖縄で飼育されていた、全身が黒い毛でおおわれているやや小柄な豚の肉には、牛肉にまさるすばらしい芳香があった。近ごろ飼われているむやみと肥らされた白い豚の肉は、残念ながら、香りも乏しくなっている。 豚の肉を食べて育ったわたしは、少年期の終りから、勉強のために東京での生活を送ることになったが、いつも食べたいと思うのは自分にとつて最高においしい豚肉だった。ところが食べてみると、ナマ臭い匂いがつきまとう。これがイヤで、牛肉がいいと感じるようになったことを思いだす。さらに思いだしたのは、しばらくして生きている豚の姿を見た時のことで、豚は黒い動物だと思いこんでいたわたしの目に入ったのは、ブヨブヨと肥った白い生きものである。白髪と化した老豚でなければ、皮膚病にかかつている豚を見たように気味悪かった。今もって恋しいのは黒い豚の、あの香り高く味の濃い肉なのである。
こうして豚からの贈りものである「あしてぃびち」と「角煮」で白飯を食べ、地漬けを噛んでいると、三の膳がきた。沖縄の漬けものといえば、大根、キュウリなどを、土地の産物である黒砂糖で漬けたものが多い。いつしか黒砂糖は発酵してアルコールに変り、南国的な漬けものになる。といって、もともと沖繩には、食事の時に漬けものを食べる習慣はなく、お茶菓子のかわりだった。二の膳の地漬けは、三の膳へのつなぎに、ロを遊ばせるためといえばいいか。 いよいよ三の膳にいたって、ついに酒の登場である。酒は沖繩の地酒である泡盛だ。無色透明の蒸溜酒である泡盛をつくるには、ネバリ気のない、例をあげると、タイ米が適しているという。タイへ旅した沖縄の人が、「泡盛とそっくりな酒がありました」と語るのを聞いたことがあり、ひょっとしたら沖縄の地酒は、はるかな時代にタイの酒づくりを学んでの産物かもしれないが、新酒は単に強烈なだけで風味なく、古くなればなるほど類のない美酒になることを、沖繩の人たちは知っている。近世の沖繩で、美食家としての名を高くしていたのは、琉球最後の国王である尚泰侯の第三王子尚順男爵だった。首里にある邸内に農園を営み、食膳にのせる野菜のほか、沖繩の風土で栽培できる果樹を世界の国々から取り寄せて、珍果の数々を賞味する日常だったのである。マスクメロン、ハネデユーメロンの栽培にはじめて成功したのも、男爵の農園だった。地元の新聞社に勤めていたわたしは、折りにふれて取材のための訪問をする。男爵のお話がはずんで、夕方になると、食膳の出ることがあった。召使いの女が恭々しく運んできた酒器をみずから取りあげた男爵は、「杯を」とうながす。注がれる酒は、泡盛にほかならないが、ふだんわたしが見るのと色が違う。かすかに黄色くなっていたのである。口当りのやわらかさ。酒とも思えぬ軽い液体が舌の先きから根元へ流れるにつれ、みやびた味の余韻を残していく。酒らしさを超えた不思議な味だとわたしは感じて、「古酒でございますか」とお尋ねしたら、白髪白面、唇赤く、なんとなく崑崙山の仙人を思わせる老翁は、ほほ笑んでうなずいた。すでにホントの古酒は、伝説として語られるだけとなっている。昔の名家では、床下に酒がめを埋めならべて貯えたそうだ。かめの一つには百年を経た酒が入っている。ついで八十年、五十年といったぐあいに、歳月を経た酒で満たされたかめがならぶ。百年の酒をすこし汲みとると 汲みあげた量だけ八十年のかめから補い、八十年のかめには五十年の酒をーと順々に足していくから、どのかめも常にいっぱいのままだった。古酒には新しく注ぎ足される酒を同化する力があるので、百年の酒は永久に百年の味を保ったという話である。 では、わたしが振舞われた男爵家の古酒は何年を経ていただろう? 不思議な味に感動を覚えたわたしは、男爵が再度すすめて下さることを期待したが、美男の老翁は、自分のためにも、重ねて酒器を取りあげようとはなさらなかった。 その後、「もう一杯おねだりしたかった」と先輩に話すと、「いや、おねだりしなくてよかったよ。古酒というものは、一杯をいただいて思い出とするのが、沖縄では、酒飲みの作法になっている」と、たしなめられたのである。 酒飲みのあこがれであった古酒が、どれだけ貯蔵されていたか知らないが、昭和十九年十月のアメリカ空軍による那覇爆撃ではじまった沖縄戦で、雲散霧消してしまった。篤志家による古酒づくりがはじまったのは、荒廃から復興して、上質の泡盛ができるようになってからのこと。もし現在あるとすれば、せいぜい十五年から二十年の歳月を経た程度であろう。そういう酒が売りものになって出回ることは、まあ、ないといっていい。
ところで、ご飯をすましたあとなので、三の膳は、酒を飲みながらゆっくりと、遊び気分で食べることになる。膳部は九品でー。なかみの吸いもの、耳皮(ミミガー)さしみ、どぅるわかしみそ菜うさち、昆布(クーブ)いりち、うからいりち、らふてえ、十六寸豆(トロクス)豆地豆(ジイマアミ)どうふ(スクガラスをのぞく)。などであった。 九品のなかで、「なかみの吸いもの」は、「あしていびち」と「角煮」ならびにこれと同工異曲の料理である「らふてえ」とあわせて、琉球料理の三本柱というべき秀作である。豚の胃と腸とを材料とする吸いもので、使われる材料の格がほかの材料より下がるだけに、品のよい料理に仕上げて、格調高い吸いものにしてあるかどうかで料理人のセンスを知ることができると、わたしは思っているくらいだ。すなわち食べる側をして、「なかみの吸いもの」に格調の高さと美味とを感じさせる料理人は、誇りをもつて琉球料理をこしらえているとみていい。「なかみ」とは、内側にあるものという意味で、胃と腸を使うのだから、あらゆる料理にまして、労力を必要とする。胃と腸についている雑物を除き、薄皮をはぎとって、キレイな状態にしたうえ、匂いを消す方法としては豆腐のオカラにまぶし、九年母の葉とともに蒸す。その間水煮しては洗うなど、水を取りかえての揉み洗いは数十回におよぶ。洗って刻んで、洗いなおすことを繰り返しているうちに、品格の高い吸いものの具になっていく。堅くて噛むに噛めない材料が、歯ごたえあるかなしかのやわらかさになってしまう。これも実は、老体の造血をうながす食べものだ。香辛料として使われるのは「ふいふぁち」といわれるつる草の実で、干して粉にし、少量を汁に加える。 「耳皮さしみ」は、この名前から連想されるような耳の皮を使うのではない。耳の薄皮をはがすと現れる軟骨の酢のものだ。酒の肴として申し分ない。飲む酒が泡盛である場合に、一段とおいしく食べられるのは、「どぅるわかし」である。田芋という水田でとれる濃い味の芋を蒸し煮してから、豚あぶらで炒めつぶし、つぶした豚肉、カマボコなどとともに練りあげたのが「どぅるわかし」だ。「みそ菜うさち」は、「みそ菜」と呼ばれる葉が大きい野菜の白和えで、「昆布いりち」は、昆布、肉、カマボコの糸切りを炒めたもの。「うからいりち」は、豆腐のオカラを炒めたもの。「いりち」は炒めることを意味している。自隠元と形が似て、二まわりほど大きい「十六寸豆」は甘煮しておいしく、「地豆どうふ」の風味は絶佳。「地豆」は落花生のこと。ナマの落花生を丹念にすって、澱粉を加え、トロ火にかけると仕上がるまで手を休めずに攪きまわして豆腐にするのだが、色は純白で、ネチッとなめらかなこの豆腐が舌にのった時、落花生の香りが鼻に通るという、その瞬間のおいしさが値打ちだ。アッという間にノドへ通されてしまう料理のために、何時間かの重労働をする料理人に感謝しなければならないのである。 二の膳で腹ごしらえをしてからの酒なので、オヒラキという無粋なきまりはなく、遊びはエンエンとつづく。しかも「いなむどぅち」や「角煮」「どぅるわかし」「らふてえ」などのあぶらが、胃の腑を護るという状態になっているのだから、強烈な酒も身にこたえない。遊びとなれば、時を忘れて心ゆくまでーという南国人の気質がつくつた酒の飲みかただ、とわたしは思う。今は時間を忘れて、饗宴を楽しむほどノンキになっていられない世間となったので、早々にきまりをつけるようになっているが、昭和年代のはじめごろまでは、歌い、踊って、遊び疲れる深夜になると「豚飯」(トウンファン)「菜飯」(セエファン)というダシ汁をかけて食べる米料理が供され、活気を盛り返して朝までつづけたりした。ー以上が「三献の料理」をサカナにしての、わたしの雑談で、それが最高の饗応だと思っていたわたしは、もつと贅をつくしたもてなしとして、「五段の料理」があった、と聞き、それはどんな仕組みだったのだろう? と昔の献立に通じている人へ尋ねたことがある。 那覇の旧家に生まれ、市長の職を経て、戦後は琉球政府行政主席を勤めた當間重剛氏(故人)の夫人である信子さんが、「五段の料理」についてくわしく覚えていた。當間さんの話によると、茶と菓子が供されて一の膳、二の膳までは「三献」と変りはないけれど、三の膳との間に「東道盆」(とぅんだあぶん)と「大平」(ウウフイラ)が出て、この時、酒器が添えられたそうである。「東道盆」と「大平」によって、饗応の席は、はなやかに盛りあがったらしい。
「東道盆」に盛られる品は、「みぬだる」、「昆布巻き」、「魚(白身)の天ぷら」、「花いか」など、料理人の才覚によってきめられた。豚のロース肉薄切りを、みりんなどで味つけしたタレにつけこんでから蒸したのが「みぬだる」である。「花いか」は、甲イカの厚い肉にタテの切れ目を包丁で入れて蒸す。包丁の入れようで、切り目がひらき、断面はいろいろな形になるのだが、昔の料理人は、蟹の形にひらかせるなど、自分なりの趣向を楽しんでいた。「大平」には、魚のすり身に卵黄をあわせて、カステラ風にてんぴで焼いた「かすてらかまぼこ」、魚のすり身だけによる「白かまぼこ」、「二色のししかまぼこ」、「車えび」「筍」「山芋」「椎茸」「みつ葉」が量感あふれる形で盛りあげられる。「ししかまぼこ」というのは、赤い豚肉のすり身と白い魚のすり身を重ねてロールした蒸しかまぼこだ。凝り性の料理人が創案したにちがいないと思われるかまぼこである。このあと三の膳へすすんで、飽食した客人たちに「しいくくぴい」という小粒のタピオカ団子を薄い糖蜜に浮かして供することがあった。沖縄では「西国米」という字をあてていたが、台湾では「西谷米」と書く。台北のスーパーマーケットで、店員に向い、「しいくくびい」と沖縄風に発音したら、さしだされたのが「西谷米」だったのである。わたしは、どうということなく、わが郷里とのつながりを感じた。そういえば、家庭料理の代表である「ちやんぷる」に相当するのがインドネシアにあるという話を聞いたことがある。豚の伝来は中国からなのか、ベトナムあたりからなのか、定説はないようだが、琉球料理の全集といっていい「五段の料理」を見渡すと、日本、中国、東南アジアのどっちとも地理的に、心理的に近かった沖縄のありかたが、ここにアリアリ現れていると思わないではいられない。 昆布の料理からは、沖繩から日本へ送られた産物への支払いとして届く多量の昆布を、セッセと食べざるをえなくなつた人たちの姿を想像するし、沖繩の「つきあげ」は薩摩経由で日本にひろがり、「さつまあげ」と名を変えた。   薩摩には、「あしていぴち」の影響と察しられる「豚足」料理もある。中国が明の世になったころから、琉球国王は臣下を中国へ使いさせた。日本をはじめ東南アジア諸国との交流も次第にさかんとなって、十五世紀になると、沖繩には、近隣諸国からの品を商う市が立っていたといわれる。当時はもう豚肉を食べるようになつていて、西の国々から学ぶとともに自分なりのくふうをするなどして、南島の料理を育てたのであろう。 現在の沖繩は、人々が長生きすることで知られているが、食べものといかなる因果関係をなしているか、興味深いことだ。家々の料理番である女性たちが、当り前の勤めとして、手間のかかる料理をつくつて家族に食べさせたことは、職業としての料理人がまるでいなかった沖繩で、料理の伝統を絶やさないという役割りまで果したのであり、また長生きのもとを彼女たちがつくつたこともまちがいない。思いだすと、料理上手の女は、親族や知合いの家で何かの祝い事があると、招かれて膳部をととのえるためにはたらいたものである。そういう場面での女たちは、イキイキとしていた。「どこそこのオバさん」と、広く名を知られるようになった女も幾人かいて、名を伝え聞いた富裕な家から迎えがくる。豪華な祝い膳の献立、材料の買いだしから、ごちそうづくりまでを頼まれて、台所の采配をふるつたという。この種の腕きき、もの知り女たちが、「五段の料理」を受けつぐなどして、料理における街の「無形文化財」となっていたらしい。年うつり、世間が変って、長夜の饗宴に散財することを愚のいたり、と人々が思うようになって「三献の料理」も「五段の料理」も幻のごとくなりにけりーーということになつた。


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